チベット仏教ニンマ派のゾクチェン前行『チュー』の瞑想法解説

チューとは何か 、 自我を手放し、慈悲を捧げる究極の観想法

チューは、チベット密教において行われる特異な観想修行の一つで、「自らの身体を仏や護法尊、さらには魔物たちに供養として捧げる」という、極めて深遠かつ象徴的な実践です。そのルーツは古代のシャーマニズム的イニシエーションにあり、死と再生を象徴する霊的変容のプロセスを体現するものでもあります。

この修行は、チベットで最も著名な女性行者マチク・ラプドンによって体系化されました。主に、定住を持たず、遊行しながら修行を続ける者たちによって実践されてきた歴史があります。密教の高度な教義に属する修法でありながら、ニンマ派の奥義「ロンチェン・ニンティク」の加行(予備修行)にも取り入れられています。

チューの行は、たいてい日没後の墓場や荒れ地――つまり、恐れの象徴としての“魔”が集まりやすい場で行われます。そこに、自らが観想の中で魔物を招き寄せ、供養を開始するのです。

チューの観想法の一例

まず、胸のチャクラにある光のティクレ(心滴)の中に黒いダキニを観想します。このダキニが中央の気脈(スシュムナー)を通って頭頂から空へと飛び立ち、同時に自らの意識も彼女と一体化します。こうして自我は肉体を離れ、自分自身が黒いダキニそのものとなるのです。

その瞬間、残された肉体は冷たい死体として地に崩れ落ち、その死体は宇宙の広がりと一体化していきます。ダキニとなった自己は、曲刀を用いてその頭蓋骨を眉間のあたりで切り裂きます。これは煩悩とその根源を断ち切る象徴的な行為です。

次に、切り開かれた頭蓋骨を鍋に見立て、その中で肉体を煮込みます。煮られた死体は徐々に溶け出し、そこに付着していたあらゆる穢れは鍋の外に流れ出し、鍋の中には清らかな甘露のみが残されます。さらに、鍋の上空に浮かぶ白く冷たい「ハム」字の種子からも、甘露が湯気と共に滴り落ち、鍋の中に加わります。これらの甘露は融合しながらどんどん増えていきます。

この甘露はマントラの加持によってさらに清められ、魔物、動物、餓鬼など、あらゆる存在の欲求を満たす力を持つ供物へと変化していきます。

供養と浄化のプロセス

ダキニとなった自分の前には、諸尊、仏菩薩、相承の師たちが姿を現し、その下方には魔物や過去世からのカルマ的負債を持つ衆生たちが集まっています。この宴の場において、まず師や仏菩薩、護法尊たちが光のストローで甘露を吸い上げていきます。

この行為によって、自らの汚れ、障害、業障が次々に清められていきます。そして、今度は魔物や迷える衆生たちの番です。ダキニである自分の胸から、さまざまな色の無数のダキニたちが現れ、甘露を各存在にふるまいます。

甘露は、それぞれの存在が最も求めているもの――食べ物、衣服、富、健康、子宝など――に変化し、無限の慈悲として分け与えられていきます。

最後の供養と溶解の瞑想

さらに鍋の中の甘露は再度沸き立ち、その湯気の中から輝く虹と光線が立ち昇ります。その光の先には、吉祥の宝物が載った供物の白雲が浮かび上がります。この供物を諸尊に捧げることで、諸尊は光を放ち、大地にいる衆生たちの煩悩と障害を除去します。

そして、まだ甘露を受け取れていない、臆病で弱っている存在にも残りの甘露がふるまわれ、それは薬や健康な肉体へと変化します。こうして、すべての衆生が癒され、観世音菩薩やターラー菩薩などの尊い存在へと変容していくのです。

最後には、魔物たちを含め、自分自身すらもすべてが「ア字(ア)」という根源音に還元され、さらにその「ア」すらも青空の中へと溶けていきます。静寂の三昧の中で、できる限り長くこの境地に留まります。

チューの深い教えは、すべての魔物は外にいるのではなく、自分の利己的な自我が作り出した幻影であり、実は自らの心の中にいるという洞察に支えられています。自我を捧げ、慈悲に還元するこの観想法は、仏教の「空」と「利他」の教えを極限まで体現する、極めて崇高な実践なのです。

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